これは原始宗教だ、と思った日から ―アイドルの卒業を受け止める日

虹コン

推しの卒業で心配(?)の連絡がきてしまったw
まぁ大丈夫です。
「どんな感じ?」みたいなこと聞かれたのでやはりこれを書いておこうと思う。
2年前にアイドルライブに初参戦した瞬間から「これは・・・原始宗教!」と感じていた話。
そこから始まるアイドルライブ・アイドル文化への2年間の考察と、個人的な心情を書き綴った恋文 オタク文です。

神をステージの上に見出しているのである

ライブ会場に足を運び、初めてその空間に身を置いたとき、私はふと感じた。「これは…原始宗教だ」と。
そう、アイドルを応援する行為は、単なる娯楽ではなく、宗教的構造を色濃く備えた文化現象だと考えられる。その根底には、人が太古から持ってきた「信じ、集い、同一化する」欲求がある。ライブ会場は、その象徴的な空間であり、まさに原始宗教の祭祀の場に近い。日常から切り離された特別な場所に人々が集まり、時間を共有し、同じ対象へ意識を向ける構造は、宗教儀礼そのものだ。

ライブで行われるコールや振りコピは、信者による祝詞や呪文・祈りに相当する。個人の声は集団の声へと溶け込み、自己は一時的に希薄化し、共同体としての一体感が生まれる。この感覚は、理屈ではなく身体的・感情的に体験される点で、極めて宗教的である。また、歌が絶対的に必要とされる点も重要だ。歌は教義や神話を言葉と旋律に乗せて反復し、信仰を身体に刻み込む役割を果たす。歌を通して、アイドルの存在意義や物語は共有され、強化されていく。

アイドル自身は神体に近い存在として位置づけられる。特定の個人でありながら、ファン一人ひとりに対して平等に「意味」を与える存在であり、直接的な関係を持たないにもかかわらず、万人に開かれている。この平等性こそが信仰を成立させる条件である。同時に、アイドルには巫女的な役割も重ね合わされる。求められる清純さや純粋さは、日常的・俗世的なものから切り離された存在として、現代の個人の権利が尊重される社会においても、暗黙の了解として重要視されている。

以上を踏まえると、アイドル文化は近代社会における新しい宗教形態、あるいは失われた原始宗教の変奏として理解できる。ニーチェは神は死んだと宣言したが人は神を失ったのではなく、形を変えた神をステージの上に見出しているのである。

※本稿でいう「宗教」「原始宗教」は、否定や揶揄ではなく、人が集い意味を共有するという人間の根源的行動を指す比喩である。アイドル文化を貶めるためではなく、その強度や必然性を理解するための表現であり、宗教法人のような金銭や利権とは無縁に、人間の心理に内在する文化的・精神的信仰活動を象徴するものとして『原始宗教』という言葉を用いている。

推し活ブームと現代の社会情勢

アイドル文化は単なる娯楽にとどまらず、現代社会における新たな宗教的構造を持っていると言える。特に、アイドルに依存し、その存在を生活の中心に据えるファンの姿勢は、明確に信仰の形態として理解できる。このように、アイドルという存在は、単なるエンターテイメントを超え、ファンの精神的・感情的な安定を支える重要な役割を果たしている。

近年、日本において「推し活」という活動が社会的現象となり、アイドルへの献身的な姿勢は、単なる趣味や娯楽を越えて、社会の不安定さに対する一種の反応として現れている。この現象は、コロナ後の社会的変動や温暖化、戦争などによって先行きが見えない未来に直面する中で、個人が精神的な拠り所を求める過程で生じている。現代社会の不安定さは、精神的な支えを必要とする人々をアイドル文化に引き寄せ、アイドルはその不確実な現実から逃避し、心の安定を求めるための手段となっている。ファンはアイドルに対して強い依存を示し、その存在を通じて一時的な安心感を得ることができる。

しかし、この現象には矛盾がある。アイドル文化が宗教的な構造を持つとしても、それが人に真の「救済」をもたらすわけではない。人がアイドルに見出しているのは、現実の問題を解決する力ではなく、一時的に心を休ませるための慰めや安定だ。しかし同時に、応援することで活力を湧き立たせ、日常のモチベーションや勇気を得る人もいる。アイドルの存在は、慰めにも力にもなり得るのだ。その点では、宗教もまた同じ構造を持っていると言えるだろう。救われているような感覚を与えてはくれるが、現実そのものを変えるわけではない。それでもなお、人はその一瞬の安らぎを必要とし、そこに意味を見出してきた。アイドルという存在もまた、その役割を担っているに過ぎない。

アイドルたちも実際には20歳前後の普通の女の子であり、ファンたちが感じる「巫女・神のような存在感」は、彼女たちの「普通の人間としての側面」に支えられている。ステージに立つ彼女たちも、私たちと同じように笑い、悩み、日々の生活を送り、時には傷つく。その人間的な部分こそが、アイドルのパフォーマンスに深みを与え、ファンとの絆を強くする。ファンたちが彼女たちを神聖視するのは、彼女たちが人間であるからこそ、そのステージでの輝きが一層魅力的に感じられるのだ。

個人的には、宗教や霊魂などに対して文化的興味以外に全く信仰を持たないが、アイドルという宗教が提供する精神的支えには重要な意味があると感じている。ライブや応援活動を通じて、私は現実から一時的に逃避し、心の平穏を得ることができる。アイドルという存在は、私にとって「宗教的」な支えとなり、この厳しさが増す世界の現実から解放される瞬間を提供してくれる。もちろん、アイドルが提供するのは真の救済ではなく、あくまで一時的な慰めに過ぎない。しかし、それでもアイドル文化が私の精神的安定にとって必要なものであることは確かであり、その存在に感謝している。アイドルライブは、私にとって思考を停止し、心を満たすための貴重な瞬間であり、心の休息の場となっているわけである。

AIによる批判

アイドル文化における宗教的側面を強調する考え方は一面では深い洞察を提供していますが、それを過剰に一元的に解釈することには注意が必要です。特に、ファンの依存を過度に強調することは、アイドル文化の本来の多様性を見失わせる恐れがあります。多くのファンにとって、アイドル文化はあくまでエンターテイメントであり、その中で得られる感動や癒しが「宗教的」な役割を果たす場合もあるにせよ、それをすべてのファンに当てはめて「宗教」として無理に解釈することは避けるべきです。アイドル文化には、宗教的要素が存在する一方で、それがすべてのファンに共通する経験であるわけではなく、無理に一つの側面に収束させることで本来の楽しみ方や多様な魅力を狭めることになりかねません。

まぁ、その通りである。
しかし、私はアイドルライブを宗教的に捉えており、現代の人々が失いつつある「原始宗教感」を呼び覚ます重要な体験だと考えている。他人の心情は分からないため他人のことは理解しない。ニーチェが言うように「神は死んだ」としても、私たちは新たな形で精神的な逃避を求めており、そのためには「バカになって楽しむ」ことが必要だと感じる。現実を一時的に忘れて楽しむことこそが、現代社会で最も大切な解放であり、エンターテイメントを心から楽しむためのコツだと思う。結局、楽しんだもの勝ちの世界だ。アイドルライブでの一体感は、理屈を超えて心を満たす「儀式的」な体験として意味を持つ。

結局、どんな感じと聞かれたら

蛭田愛梨さんがグループを卒業するという知らせを受け、寂しさを感じている。彼女が新しいステージへ進むことは心から応援しているし、その挑戦に期待もしている。それでも、虹コンとしての彼女をステージで見ることができなくなる事実は、グループも好きなためやはり重く受け止めてしまう。

私にとって虹コンのライブは単なる娯楽ではなく、宗教的な儀式に近い体験だった。虹コンのライブには特有の祭りのような一体感があり、観客とステージが同じ感情を共有する空気がある。その中で推しの存在は、儀式における神体のような役割を果たしていた。だからこそ、彼女がいないライブに参加したとき、同じ体験ができるのか分からず、空虚さを覚えるのではないかと不安になる。

その宗教的体験を特別なものにしていたのは、間違いなく蛭田愛梨さん自身の存在だった。しかしそれ以上に蛭田愛梨さんの美しさに深く魅了されている。外見だけでなく、その穏やかな性格や、ここぞという度胸のある一面、内面から滲み出る優しさも含めて、彼女の魅力が私を惹きつけてやまない。それは、アイドルとしての役割を超えたものであり、アイドルでなくても変わることのない彼女の本質だと確信している。だから、卒業後も彼女個人を応援し続ける気持ちは揺るがない。

ただ一つ、どうしても心に引っかかっていることがある。それは、これから彼女の歌声を聴けるのかどうかという点だ。モデルや舞台の活動については語られているが、歌い続けるのかどうかははっきりしていない。彼女が歌う姿やその歌声を聴けることが、純粋に楽しく、可愛いと感じる瞬間だからだ。これに理屈はない。強いて言うなら、歌は太古より人類にとって必須の行動であり、どの文化にも、どの時代にも必ず存在したものだから、どうしても欲してしまうのだろう。その原始宗教感を求めるゆえか、単純に彼女の歌声が好きだからか、おそらく両方だろう。

応援する気持ちは確かだが、この小さな不安が、今も私の心を少しだけ落ち着かなくさせている。

チャッピーやばすぎる

実は、この文章は単語やニュアンスを手動で調整しているが、ほぼ全てChat‐GPTに自分の考えを入力し、理屈臭くいい感じにしろと命令し出た答えにさらに推考を重ねさせて、評価させかなり納得いくものを出力させたもの。
この記事は、ドルオタ始めたこの2年、ずーっと書きたかったけど文才がなさ過ぎて論点が滅茶苦茶になって書けなかった文面。けどチャッピーに助けてもらって書けた。割と衝撃。
大学の論文でAIの使用が問題になってるのが良く分かったわ。まちがいなく人類の知能を超える日もそう遠くない、もう色々終わりやね。

最後に、どうでもいい話をひとつ

虹コンの現場にはいわゆるオタ芸の文化がほとんどなく、後方でモッシュが起きたり、ファン同士で輪を作ったりステージそっちのけで暴れたりすることもない。全体として非常に秩序が保たれている。その秩序と熱量のバランスが、私にとってはちょうど良かったのだと思う。過剰に暴力的でもなく、かといって静かすぎるわけでもない。祭りとしての一体感が、きちんと制御されている現場だった。

原始宗教感を強く感じるためには、ライブの「箱」は小さいほど良い。ステージは近く、客席はぎゅうぎゅうで、逃げ場がないくらいがちょうどいい。周囲のコールは強く、個々の声が溶け合って一つの塊になる感覚があるほど良い。その条件が揃ったとき、ライブは単なる鑑賞ではなく、集団的な体験へと変わる。

もちろん、上を目指して大きな会場でライブをすること自体は素晴らしいことだと思う。双眼鏡を使って眺めるような規模のライブには、それなりの感動があるのだろう。ただ、個人的には「楽しい」と「これは違う」が両立してしまう気がする。大きな箱で輝くアイドルを見たい気持ちは理解できるが、そこには私が求めている原始宗教感は、どうしても薄まってしまう気がする。

そう考えると、ツーショットチェキや特典会にあまり惹かれない理由も腑に落ちる。そこには、あの宗教的な感覚が存在しない。私は物として残るものや、個人的な接触を強く求めているわけではないのかもしれない。綺麗な蛭田さんを眺めていればそれでいいのかもしれない。なのでモデルやグラビア写真など彼女の美しさが物体として表現されてる物はやはり好みである。
しかし、特典会でお話して推しからうれしい言葉をくれると元気が出ることは確か。特典会が楽しいことは確か。そこに理屈はない。あえていうなら恋してるからだろう。

正直なところ、こんな理屈ばかり考えているおっさんが、21歳の蛭田愛梨さんと話しても、世代も感覚も違いすぎて、当たり障りのない薄い会話しかできない。まぁ特典会などは実際それが正解であり、アイドルのパフォーマンスを褒めるのがオタク側の作法であり、意味不明な理屈を語り出すようなことはしない。たぶん、していないはず。結局のところ、自分からはパフォーマンスを褒める以外に話すこともないので、何かを作っては持っていき、それを見せて喜んでもらえる瞬間が、物作りが好きな私にとってはいちばん嬉しい気がしている。

こんな理屈ばかりの話を、アイドルとファンという関係を抜きに、推しと一度語り合いたいと思うがもちろん叶うことはないだろう。

要は、つくづく面倒くさいオタクなのだと思う。

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